日本の大切なきもののための遺書


はじめに
 昭和五十九年の十一月に発刊された季刊「銀花」(文化出版局刊)第六十号に「日本の大切なきもののための遺書」という記事がのっております。きものがいくら素晴らしくても、きものを普段着られるということは、太陽が西から昇るようなものでしょう。きものを作り、着ることを生きがいにしていた私にとっては、たいへん寂しいことですが、きものを愛した女のこころだけは残しておきたいと思っています。今、日本人のきものの話しを残して置かなければ、日本からきものが消えてしまうという思いがしきりにしたことがありました。
 しかし「日本の大切なきもののための遺書」などという題は、照れくさい気持ちもありましたが、今この一九九〇年においては「日本の大切なきもののための遺書」という一種異様な言葉を、照れもせずに発言して当然の時代になりました。
 五九年に一回出た時は、読者の方から「つぎつぎに書き続けてほしい」とお便りがありましたが、いつかまとめたいと思っているうちに六年たってしまいしました。その間、七年かけて本格的和裁の本を作っていたものですから。(こちらは初心者から専門家向きまでの実技書)
 遺書だからと堅くならずに、気軽なおしゃべりのタネ本にどうぞ。

著者 村林益子

 日本のきものがなくなってしまう、と言い出したのは村林益子さん。村林さんは、おじいさん、おばあさん、お母さんが、東京の呉服屋さんで、特にお母さんがお針仕事が達者でした。晩年はへらつけなしできものを縫ったものです。村林さんもその血を受けて和裁の達人、学校で教えるのと違った、本当の仕立て屋和裁を身につけています。その仕立て屋和裁が簡単で綺麗に仕上がる、日本の伝統ある「本格和裁」と承りました。
 村林さんは、東京、長崎、京都と和裁を教えてきました。長い和裁人生で、いつも祈るように「どうにかして、きものを残しておきたい」と針を動かしていました。
 村林さんはいつも、きものの中に先祖の心の生きているのを感じています。村林さんにとって本当に残したいものは、日本人の心なのです。こんな話――涙をまぜてきかせてくれる村林さん。

編者 細井富貴子


目次
はじめに 単衣(ひとえ)物の背縫い
きものに文句を言わない 肩当て
参った、参った
糸くず 無言の教え
衿もとの汚れ 習うより慣れよ
つぎはぎの長襦袢 千枚縫って一人前
残り布
外袖(後ろ袖)を大切に 霧吹き
膝の上でたたむ 洗濯どめ
羽織の『ち』 ショールのかけかた
つま下 稽古
浴衣の徳 余談ですが
しみ抜き 仕立てを頼むときはうるさく
まず手を洗いましょう ほどけた帯
いつもハンカチ三枚 きものを出すタイミング
肩こりに負けないで やはり綺麗に撮られたい
ゆかたを楽しむ お辞儀
忍耐 日本が好き きものが好き(終わりに)



きものに文句を言わない
 私が本格的に和裁を習っていたころは戦争直後でしたから、東京は焼け野原で、きものにも不自由している時でした。どんなに傷んでいるものでも、ぺらぺらに薄くすぐ切れてしまいそうなもの、へらのわからぬものなどどんなものでも、ありがたいと思って勉強してきました。新しい反物ならいちおう和裁を習えば誰でも裁てますが、やりくりをして、傷んだり汚れたりした布をみごと生き返らすことには得意になり、今、弟子たちがどんなものをもってきても恐れない下地はそのころできました。
 そんなある時、近所の奥さんで、「これは縫いにくい」「へらが見えない」「かたい」といちいち文句を言う人があって、本当にびっくりしたことがあります。
 きものは一枚ずつ礼拝して、「縫わせていただきます」と念じながら縫ってきた私にとって初めての経験でした。
 その後、その方の家庭は崩壊し、不幸な人は引っ越してしまいましたが、布に文句を言う人は人生にも文句を言う人なのだな、と深く思い当たったという思い出があります。どんなに難しい柄合わせのものが来ようと、縫いにくいものであろうと、これらはすべて勉強だと思って、喜んで一つ一つの経験を積み重ねていってください。それが人生すべてのことに通じる心だと思ってまいりました。


 いつのことでしたか、きものを愛用している奥さまから、「いい糸で縫ってくださるので、糸が切れることがないので感心しています」とほめていただいたことがあります。
 古い糸は弱っていて切れやすくなっています。それを「糸が風邪をひいた」というのですが、ちょっとお安いガス糸や古い糸を決して使わない心がけは、黙っていても信用に通じるものだ、とその時思ったものです。
 きものでも洋服でも、全然違う糸で縫ってあって驚かされることがあります。縫う心≠ニいうものは、そんないいかげんなものではいけません。ぴったり色の合う糸を買うために、布端を小さい三角形に切ってお待ち下さい。

糸くず
 ヌードといってもあまり驚かない時代になってしまいましたが、昔の水着姿の写真を見てもお分かりのように、以前は、女性が体をむき出しにするなど、たいへん恥ずかしいこととされていました。
 私のきものの恩師、小見山先生は、「仕上がったきものに小さい糸くずをつけておくことは、女が裸を人に見せるほど恥ずかしいことだと思いなさい」という教え方をしてくださいました。ですから私ども弟子は、目を皿のようにして糸くずを探して取ったものでした。一本の糸くずを先生が見つけられて、つまんだ手を振り上げられた時など、全く恥ずかしい思いをしたものでした。
 最近、電車の中で糸くずのたくさんついた服を看ている方があり、思わず取ってさしあげたくなりました。

衿もとの汚れ
 きものや半纏に黒じゅすの衿をかけているのをテレビなどでごらんになったことがあるでしょう。今日ではそういう姿はあまり見かけられなくなりましたが、なかなか美しい装いの一つです。きものが平常着のころは、衿もとの汚れにたいへん気をつかいました。
 大きな催し会場で、あるきものの先生が話をなさっていました。ところが衿もと(つまり共衿)があまり汚れているので、奥さま方の一団が「まさか先生ご本人ではないでしょう」「いいえ確かに先生よ」と後々まで話題になったということを開きました。
 きもの一枚仕立てるのに、どれほどの心が込められているかを知りますと、きものは汚さないようになります。「首に直接きものの衿が触れていないか、半衿のほうに当たるように」と、ちょっと指先でそれとなくさわってみる心がけが大切です。
 きものの先生が、上等の白地の絞りのきものを着て足を組み、肘をついてたばこをすい、衿にぴったりお顔も髪もついている。思わず目を覆いたくなる思いをしたことがあります。
 きものの先生といっても実際には縫えない方もありますから、これでは若い人の指導にはなりません。
 若い時「半衿を汚したままきものを着るなら、着ないことよ」と母に言われたことが忘れられません。
 それにつけてもおもしろい話があります。あるテレビで昔懐かしい奥さんの姿が見られました。手拭いを二つ折りにして、後ろの衿にかけていました。髪が当たると、きものも半衿も汚れますから、ふだん、家では婦人たちはこのようにして働いていました。
 しかし、お客様でもいらっしやつたら、すぐ手がこの手拭にかかって取らなくてはいけません。
 画面の中の奥さんは、大切なお客様の前でお茶を入れながら、まだ衿元に手拭が残つているではありませんか。

つぎはぎの長襦袢
 表も裏もつぎはぎだらけに丹精して母が縫ってくれた長襦袢を手にとると、新しいものよりかえって温かさが手の中に伝わってまいります。こうして昔の人は手まめに手持ちのものをほどいては、長襦袢や胴着に変えていきました。
 母の長襦袢の袖や裾の回りは羽二重の帯であったり、気に入ったセルの四つ身は私が大きくなると長襦袢の胴になって、袖はまた美しい布がはいでついていました。考えてみると、着捨ての昨今よりそのころは一日がもっと長かったように思われます。  羽織裏もほんとうにすてきな裏がありました。メリンスも今の手ざわりとは全然違います。私の幼かったころのきものを若い人たちは「いい柄ですねえ、すてきですねえ」と感心してくれます。古いものは古いものではなく、かえってセンスがよくてモダンなものが多く、貴い時代だったなと思わずにはおれません。

残り布
 余りぎれ、または美しくお供ぎれ≠ネどと呼ばれています。小布にはそれぞれの思い出もまつわり、眺めているだけでも懐かしさ、うれしさが心満ちてくる思いがするものです。仕立屋の立場で申しますと、仕立物で出た布端や耳の部分を捨てずにお返しする心がけは、信用につながるものと考えてまいりました。わずかばかりの余り布を出すよりは、内あげとして縫い込んでおくほうが親切です。
 内あげをとったうえでなおかつ余裕がある場合は、いちおう後々の使い道を相談のうえ、余らせるようにするのが望ましい方法です。もちろん布によってはもっと充分に余るものもありますが、一尺五寸(約五十七センチ)あればハンドバッグや草履、一尺三寸(約四十九センチ)以上なら共衿が二本とれる裁ち方をして一本余計にとっておくと、汚れても安心。二尺(約七十六センチ)では前掛けが作れます。
 八十歳を過ぎた高僧のお召し物を縫わせていただいた時、前掛け分だけ余らせて仕立てさせていただきました。法主様は年中書をかかれるお方のため、大変なお喜びでほっといたしました。勝手に縫わせていただいたのは初めてのことで、余らせ方もおききすることにしておりました。私のきものの世界はまだ息づいております。

外袖(後ろ袖)を大切に
 今はもう亡き先生方の面影は、弟子に仕事を教えているときにも必ず感謝とともに心によみがえってまいります。昔の誰が考えたのか、ほんとうに貴い教えだなとしみじみ感動するものばかりで、私がそれを言う前に弟子たちのほうから、「すばらしいですねえ日本人の心って。感心してしまいますねえ」と言ってくれます。
 その中でもうれしくなるきものへの思いやりに、外柚を大切にするということがあります。
 袖には外袖(後ろ袖)、内袖(前袖)があり、外袖のほうは人さまに見える側なので大切にされています。
 染めむら、傷は前袖のほうになるべく持っていきます。両袖が縫い上がったとき、必ず外袖と外袖を合わせて(つまり内側にいれて)しまっておくか、座布団の下に敷きます。
 この心づかいは、お召しになる方にとってもうれしい心やりではありませんか。

膝の上でたたむ
 袴や留め袖、娘の中振り袖をたたむときには、たとう紙の上に広げてきちんとたたみますけれど、日ごろきもの生活をしているので、ほとんど朝夕のように膝の上でたたんでいます。
 きものは、長々と広げて人が動いてたたむものではありません。下半身をたたみ、三つに折りたたんでそれを右方向にずらして次に上半身をたたむものですから、膝の上で充分にたためるものなのです。
 男物の本式のたたみ方を知らない方、おくみはおくみつけの縫い目どおりに折るものと教える方が多くなり、寂しい思いをしています。
 着つけの先生が私の寺小屋で和裁を習い、熟年後の生きがいになったと言ってくれましたが、きものを着るたび、しわになった衿にアイロンをかけていたのは、たたみ方を間違って習ってきたためだったと喜んでくれました。
 おくみは、裾で一センチ、衿先のところで二センチ、前身頃に入ったところで折ります。上半身は、衿を両手でまっすぐにのばしてたたみますから剣先では三、四センチ離れたところで自然に折れるのです。母から娘へ、大切なきものの知識をたくさん教えてあげたいものです。

羽織の『ち』
 女物の羽織のひもは、結んで帯の上の線と帯締めの間に結び目が来るようにすると形がいいとされています。それを目安にし、中年になってだんだん帯を下のほうに締めるようになりましたら、少しちの位置を下げましょう。男物のちの位置の標準は、背中心からはかって一尺一寸(約四十一・七センチ)、女物は一尺一寸五分(約四十三・五センチ)です。テレビなどでごらんになってくださればお分かりになりますが、男性はかなりちの位置が上で、羽織のひもが胸のほうにある感じがします。なかなか上品でいい姿だと思います。背の高い方はちの位置も四センチ以上下げますが、武士が刀を差したところをまた観察してください。ちの位置がちょうどこれでいいということを納得してくださることと思います。

つま下
「芸者がつまをとる」といって、引き着のきものをひきずったままでは歩けませんから、つま下を両手で持って歩く、美しい粋な姿をごらんになったことがありますね。花嫁が打掛け姿で歩くとき、歩きやすいように者つけの人が掛け下も一緒に手に持たせてくれますね。同じような姿です。
 この 「つまをとる」 という言葉でわかりますように、衿先から下のつま先までをつま下≠ニいいます。分かりやすい言葉の衿下≠ニいつの間にか呼ぶ方も出てきました。
 つま下寸法が短すぎますと、男物、女物とも形が悪いものです。女物は、おはしょりの下から衿つけが二センチ、またはのぞかないほうがすっきりしています。男物は、丈(背縫いではかります)の二分の一より四センチ長くするほうが江戸っ子らしいすっきりとした形とされていました。これも体格によって異なりますので、教わったとおりにしてはいけません。

浴衣の徳
 今日ではゆかたと呼ぶより「木綿のきもの」と呼んで広めようとしていますと問屋さんが話して下さいましたが、せっかく浴衣を着ようという気になった人たちにやかましいことをあまり言わないほうがいい、と友人にたしなめられました。しかしある新聞を見て、やはり書きとめておきたいという心がわいてしまいました。一応は心得ていただければ幸いです。
 まず浴衣の徳≠ニ私が呼んでおりますゆえんは、男性が絞りを召すことはありませんが、浴衣だけは絞りのものが着られます。また女性はできるだけ大胆な大柄のものを選べる楽しさがあり、それを名づけました。専門店で「大きな柄のものを見せてください」と申しますと、「お客さまのような方ばかりいらっしやつてくだされば喜んで大柄のものが染められるのですが、今の方々には分かっていただけず、若い方でも小さい柄ばかり選ばれるので張合いがありません」とご主人が残念そうです。あまり何色も使わない涼しそうな大柄を、もっと染めてくださる方はないものでしょうか。
 涼しい時期につい暑苦しい浴衣を求めてしまうという失敗は私にも経験があります。
 先日もデパートの売り場を歩いていますと、大学を卒業したてのような店員さんが若いカップルにしきりに、紺地のしかも暑苦しく、ごてごてした柄をすすめているのを見かけました。
 浴衣の時期は六、七、八、九月の四か月ですが、明治二十五年生まれの母が、六月に白地の浴衣を着ようとした私に申しました。
「昔はね、夏の初めに白地を着たら笑われたのよ。六、九月は紺とかねずみ地を、暑い盛りにはなるべく白地を着たものよ」
 初めに書きましたがその新聞記事はなかなか名文でしたが、ただ一か所、「白地の浴衣はねまきに見えるので、紺のすてきな浴衣を着てみてください」というようなものでした。白地のすてきな浴衣がねまきに見えるご時世なのか、若い人たちにそう思い込んでもらっては困る、とつくづく思った次第です。

しみ抜き
 活躍なさっている着付けの先生が、いつも講義している通りのしみ抜き方法で大島のしみをとろうとして、一枚のきものを駄目にしてしまったと笑っておられました。
「しみをつけたら専門家にまかせる」
 これが最善の道としか私は書けません。
 慣れない人があれこれしても、かえって専門家が取りにくくなるものだと心得ているほうが無難です。
 ただし、指に針をさして血をつけたような場合は、下にタオルを置いて水をつけた布で時に場所をかえながら、トントンと強くたたけば、きれいにとれます。
 とれたあとはコテで急に乾かさずに、両手ではさんでの手の温もりで乾かします。
 醤油も、つけてすぐならこの方法でとれますが、いずれもこすって広げないようにする注意が必要です。

まず手を洗いましょう
「あなたは、きものを着る前に手を洗っていますか?」
 こんな問いかけに、「イエス」と答えられる方が、はたして何人いることか、心細い気がいたしますね。
 呉服屋の娘に生まれ、文字どおりきものの中で育って、何よりもきものを愛した明治の女である母の、きもの憲法のひとつですが、今は私が生徒さんたちにくり返しくり返しして、口ぐせのようになってしまいました。
 きものが、なにで汚れるか――ということになりますと、これがよそのどなたさまのせいでもなく、自分の手で汚すことが多いということにお気づきの方は、少ないのではないでしょうか。
 晴れ着に手を通すとき、脱ぐ時は、必ず手をきれいに洗ってください。石けんでていねいに、そして完全にしめり気を取るよう心がけましょう。
 もちろん髪もきちんとし、衿が汚れないように気をつけることも、お忘れにならないで。
 着るときにだらしがないと、不始末できものを汚すことも多く、だらしなく着て汚したものは、染め返しをしても、すっきりと、きれいにあがらないものなのです。
 いつでしたか、懇意な染め屋さんと、きもののことを、あれこれと、とりとめもなく話したことがありました。
「きものというものは、汚れがつきやすいもんですが、汚し方もいろいろでね。その汚し方ひとつで、きものを心からかわいがっている人か、だらしなく着ている人か、ひと目でわかるものなんですよ」
 その時、なにげなくもらした染め屋さんのこのことばが、じんと胸にこたえたのを覚えています。
 心をこめて、大事に大事に着たきものは、母から娘へと、何代もおくられるもの。あなたも、きもののマナー、きものへの思いやりを忘れずに、大切に、いとしんで着てほしいのです。

いつもハンカチ三枚
 ハンカチもおでかけの場所でかわってまいります。およばれなどには、レースなどの美しいもの一枚、手拭き用のガーゼ一枚と、男ものの白を一枚と、最低三枚はご用意ください。手拭き用のガーゼは袂に入れておき、レースのものは手に軽く持っていて、手を長い間膝の上においているときは、掌のしたにさりげなく入れておきたいもの。
 暖房のきいた部屋では思いのほか手も汗ばむものですから、きものを汚さないためにも、そんな心ばたらきがほしいものです。

肩こりに負けないで
 せっかく張り切って針を持ちお裁縫をしようと思っても、まだ一時間もたたないうちに肩こりで悲鳴をあげてしまう方があります。「ああ、やっぱり私は駄目だ」と。
 私は何でも自分でやってみることが多いので、思い出すと自分でもおかしくなることがいろいろあります。
 その一 コテの熟さをみるのに人差し指にツバをつけてコテに触れ、その一瞬チュッ!という音で熱さを計るわけですが、指先はちっとも熱くありません。そこでいったい、舌先でやったらどんなものかと人のいないところで実験してみました。その結果、ちょっと火傷をしてしまいました。
 二十代の時でしたが、今思い出してもおかしい実験でした。
 その二 また、ギックリ腰になって立ち上がるのに三十分、ただうしろを向くだけでも二時間もかかるという激痛の時、母も年老いていましたし、昼間は家中が留守になるので困り果ててしまいました。やっとの思いではありましたが、指圧も注射もすることなしに、あくる日は小学校で二時間講演をし、おけいこも休むことなく、責任感だけを優先にした日を過ごしました。
 あぶら汗を流しながら自ら体験したことは、ギックリ腰の時に無理を通すと少しずつよくなるということでした。決して人にはすすめませんが、大切にしてもらえる立場の方はかえって痛い痛いで身動きもならず寝込んでしまわれるでしょうが、「四十代で、もしギックリ腰になったら、あぶら汗を流している私の顔を思い出して」と、笑いながら弟子たちに話したものです。自分の体で体験するのが一番わかりが良いわけです。
 その三 コテで指先に火傷をした時、このまま放っておいたらいったい何分で痛みがなくなるか、ということも自らやってみました。さすがの痛みも、二十分ですっかりうすらいだことを覚えております。
 このようにいろいろなことに恐れずに立ち向かえば、すべてのことは思い通りに好転できるものであることを、和裁をしながら覚えてゆきました。
 肩こりでお困りの方、投げ出さないで、いったい何日ぐらい無理をして励んだら肩がこらないで仕事の出来る自分になれるか、ひとつ実験してごらんになりませんか。

ゆかたを楽しむ
 ゆかたの大柄をすっきり合わせた女姿にはほれぼれいたしましす。細かい気遣いですが、ちょっとお読みを――。
 左肩、または胸(上前)に逆の柄をおかないようにしてください。逆の柄は、下前やかくれる部分にゆくように、共衿も、上前の柄を主にして考えましょう。
 洗濯は昔は押し流いでしたが、今は洗濯機の時代です。ゆかたは洗濯機にほかのものといっしょに満杯で洗わずに、一枚ずつフワッと浮かせて洗い、脱水も水気の残っている程度にしておきます。そして袖畳みにしてパンパンと手で叩いてしわを伸ばしてから干します。脱水しきると小皺がとれないのです。ゆかたの洗濯は、汚れを落とすというより、汗を流す程度ですから、洗剤などもたくさん使わず、水で濯ぐという気持ちでいいでしょう。

忍耐
 どんな道でも共通していることは「忍耐」、つまり、がまん強さでしょう。
 同じ忙しさでもイライラしないで「楽しく忙しく」と心を変えることはできますが、縫うことはともすると途方にくれるようなこともあり、骨がギシギシと音を立てるほどの忙しさもつらさもあります。それゆえ、仕立てをやりとげた時の喜びや満足感は、縫った人でなければわからないしみじみとしたものなのです。忍耐力を養うためにも、お針の道は素晴らしい道だと思います。
 忍耐というとつらい事のように思われる方があるかも知れませんが、縫うことは余りにも楽しくて、ついつい時間も日も過ぎてゆきます。しかし、縫うことは自分が主人公であるわけですから、しつかりした責任の前にもがまん強さが必要になります。ぜひ、一度志したあなたのきものの道でしたら、我慢強く進んで下さい。

単衣(ひとえ)物の背縫い
 昔から、中心であり縫い始めである背縫いは、途中で糸を足すことなく一本の糸で縫うという日本らしい素晴らしい考え方があります。
 単衣物、またはウールの縫い目は袷の物より細かく縫います。そのために背縫いの長い道中を細かく縫っているうちに、指抜きや針の穴でこすれて、すっかり糸が傷んでしまったり途中で切れてしまうことさえありました。
 そこでこの方法を考え出しました。
 まず、糸の片方だけを充分長くせずに、端の差を三十センチくらいにして(つまり、ほとんど二つ折りのようになります)縫い出します。 そして糸を引きあげる時に、針の当たるところを少しずつずらしてゆけば一カ所が傷むということがなく、最後まで丈夫な糸で縫い上げることが出来ます。
 とくにウールは縫い目がつれやすいので、こまかく縫う時、糸こきを充分して下さい。

肩当て
 ひとくちに「肩当て」といっても、大変幅が広いのです。浴衣や寝巻きにさらしでついているものから、夏の薄物にハート型についているものをご覧になったこともありましょう。
 いまだに、浴衣には肩当てや敷当てをつけるものだと考えておられる方もありますが、一言で言えば、二つとも終戦後から高級仕立てにはつけなくなっています。けれど浴衣を素肌で身につける方のためなら、敷き当ても肩当てもつけましょう。
 単衣物は、肌着をつけて者ますから、かえって暑苦しく、つけないほうが良いと思います。ただし、肩当て、敷き当てをつけるよう依頼されたときには、黙ってその通りにしておあげなさいと私は申します。お説教はいけません。
 しかし、スポーツウェアならともかく、スカートに敷き当てもなく、ブラウスに肩当てのないように、単衣物には不必要なものではないのでしょうか。
 けれど、素肌に着る寝巻には、単にお体裁で小さな肩当てをつけるのではなくて、背中に充分かかるように大きい肩当てをつけるようにしています。お体裁なら不必要、必要なものには大きくつけるという心がけをモットーとしてまいりました。
 身延山の朝のお勤めに参加させていただいた時のことですが、大勢並んでお経をあげていらっしやる若い僧達のグレーの法衣に、グレーの大きい肩当てがはっきりうつっていて、その美しさに思わず大感激をしたことがありました。
 肩当てがついていなかったら、あの美しさはありません。必要なものの大切さ、美しさを心から知り得たひとときでした。

参った、参った
 茨城県の家から娘といっしょに東京へ帰る時のことです。ちょうどホームに電車がとまっていました。私はそれに乗ろうと切符売り場にかけて行きました。おなかの大きい娘は悠然たるものです。そしていうには「お母さん、普段、きものを着たら駆けてはいけないと言っているのに、今のありさまは本当にみっともない」。これには参った、参ったでした。 きものを着る  幼い時、一人娘であった私に、着せかえ人形のように母は一日に二、三度きものを着せかえて楽しんでいました。
 母の口ぐせは、「付けひもや帯をギューギューきつく縮める人がいますが、私は子僕が可哀想だから決してきつく締めないのですよ」ということでした。そのおかげか、苦しくない着つけは、よく女優さんやモデルさん方に喜ばれて来ましたが、大切なことだと思います。
 着くずれしないために、いたずらにギューギュー締められると一刻も早く脱ぎたいことばかり考えて、きものを着ているという喜びが湧くはずがありません。もうコリゴリと言われてしまいますね。
 そして和裁と着つけとは、共通点と言ってもよいところがあります。
 仮紐を使って帯結びを習った方は、ずっと仮紐を使わないと出来なくなってしまうようです。それは和裁ではさみを使う時に、コテをかけたり針をたくさん打っておかないと、切れない人が多いということと同じような気がします
 帯は締めていても少しも苦しいものではありません。特にお太鼓、二重太鼓は決して落ちてくるものではなく、ギューギュー締めないと落ちてくるというのは迷信と申し上げても過言ではないでしょう。
 きものを着て帯じめを締めるまで五分以内で出来るやさしいものです。練習不足なら出来ないが、熱意さえあれば必ず出来ると、まず決めてから始めていただきたいと 思うのです。

無言の教え
 私がきものと切っても切れないかかわり合いを持っているのは、やはり呉服屋に生まれた母の影響が多いと思います。
 先日も人形町(東京)を歩いていましたら、子供の頃よく母と歩いたことを思い出しまして、とても懐かしい思いがいたしました。
 半衿や柄選びを母から褒められるととても嬉しくて、もう大得意になって、あれやこれやと選んだものでした。このように小物一つ選ぶにしても、昔母から教わったことが今でも体の隅々に生きていて、とても役立ってくれております。それはたとえ言葉に出して言われたことでないにしても、母親を見ていると自然に身に付くことが多いものです。
 まず、帯やきものはもちろん小物類をいたわるという心を母から学びました。母は、帯も帯じめもいつも同じところで締めたりはしませんでした。同じところでばかり締めますと傷んで可哀想ですからね。
 それからもう一つは、着る人の身になって仕立てるということです。私は、さらしの肌じゅばんやゆかたは一度水通しをしてから仕立てることにしております。こうすると洗った時に丈が縮むのを防ぐことができます。特に男物のゆかたはつい丈ですから欠かせません。これは母の心づくしがそのまま生きております。
ものに対しても人に対しても、ほんのちょっとした心づかいをする――。これは簡単なようで一朝一夕に身につくものではありません。ましてお金で買えるものでもない「心」というものを、歳月をかけて、母から娘へと受け継ぐことができたら、これに勝る宝はないと思うのです。

習うより慣れよ
 四十歳過ぎてから自動車の教習所に通い始めた私は、忙しい仕事の合間をぬったり、途中、子供の入院があったにもかかわらず、皆に感心されたほど短期間で免許証を手にすることができました。
 それというのは、「あんなお兄ちゃんたちが取れるのに、私が早く取れないはずがない」と肝に銘じて勉強したからだと思います。皆さんに申し上げたいコツがここにあります。
 つまり、昔のお母さん、おばあさんが出来た、きものを縫うこと、着ることが、素敵な洋服を着こなしている現代女性にも「出来ないことはない」とまず思うことから始めるとよいと思います。
 縫えないこと、着られないことをまるで自慢するかの如く言うことをやめて、あまり人がやっていない道を選ぼうとするのも大変楽しいでしょう。
「何をやっても手早くきれいに出来る」その最大理由は何でもない、つまり何百回も何千回も縫うということです。
 右を向いても左を向いても、きもの、きものの時代には、いくら縫っても縫っても仕立物はありましたが、現在では仕立屋として一定の店から来る他は、殊に知人から頼まれたり、家人のものを縫ったりでは当然数に限りがあります。それをちょっとした心掛けにより、材料が切れないようにすることができます。
「練習中なので、浴衣でもウールでも縫わせていただきたい」と人に声をかけることです。修行途上の人に仕事を貸してくださるのだから、感謝して縫わせていただくことが大切です。縫うものの量が多ければ自然にピッチが上がります。
 何事も心掛け次第ということの例として、弟子たちに型の良い肌じゅばんを教えて上げましたところ、中に二十枚以上縫って知人に配った人がいました。「お蔭で上達してからの予約まで受けています」と大喜びの様子でした。
 一枚の作品を縫って提出しただけでは、力はつきません。私の願いは、車の運転と同じく一にも二にも慣れること。一枚習ったら、それを人に教えられるように自分か ら学ぶこと。残念ながら、忙しさのあまりか、貴重な人達が減ってきました。早くこんなたのしい道を気づいてくださる方がふえますように。

千枚縫って一人前
 弟子たちはよく、「先生、私いくらやっても覚えられなくて、いやになります。頭が悪いんですね」とこぼします。その時私はあきれ顔をして笑い出し、いつも同じことを答えます。
「いくらやっても≠ニ言って何枚よ。二、三枚縫っただけでいくらやってもとは言わないこと。電車の中、眠る時、起きる時、難しかったことは二十回繰り返して思い出してごらんなさい」
 変な例で叱られそうですが、私の親が亡くなった時に、「お戒名を初七日までに繰り返し繰り返し唱えて覚えてしまって下さい。そうすればもう忘れませんよ」と言われたのですが、なるほど、何でも同じなのだなあとつくづく思ったものでした。
 現在は練習する布もふんだんにある恵まれた状況ですから、手こずる衿先どめなどの部分縫いは、やる気さえあれば何回でもできます。終戦後に勉強した時は、よくちり紙などを切っては衿肩あきはこう切ったとか、袖口どめはこうだなどと、少しの時間でも使って一人で考えたものです。
 いま、肩当てはこう切るのよとメモ帳を切って教えますが、これなどは少し行き過ぎの感で、実は弟子自身で勉強すべきことです。「覚えよう」という心が、どうも最近は不足している方が多いようです。


 失敗から生まれた教えは、貴いものだと思ったことがあります。それは私の修行時代の師匠の、苦い思い出です。大晦日のこと、明日は元旦、食事もおむすびをほおばるという忙しさで、やっと最後のきものが仕上がってほっとした時に、師匠は思わずきもののうえから、裁ち板の上に両手をついてしまいました。その途端、ザクッと鈍い音とともに、布の切れる感触がしたそうです。冷汗を流しながら、おそるおそるきものを手にとってみると、おいてあった裁ち鋏の先が少し開いていて、それが大切なお正月の晴れ着をぱっくり切ってしまったのです。以後、決して裁ち板の上には鋏を置かないという教訓となりました。この失敗談から、どれだけきものが守られているかわかりません。
 また、私はうちに和裁を習いにきている方に「鋏は切れるものを使って下さい」と、こんなことを時々言わなければなりません。仕立てものをしている方でも、小学校時代の切れない鋏や錆びた鋏を、案外今も使っている方が多いのです。
 和裁の裁ち鋏は、外国の変わった形のものより、国産のもののほうがいいと思います。
 いい鋏は、一度開いてみてそっとつぼめる時に、何の抵抗もなく、しっとりとした感じで柔らかく閉じられるのが最高といえます。閉じる途中や最後になってガクガクとつかえるのは、いい出来だとはいえません。同じ種類のものでも、十丁のうち二丁もいいものが見当たらないと言うのは、本当に残念なことです。
 布目を通して切る時は、よこ糸、またはたて糸に沿って切ることが多いのです。鋏の先から五センチぐらいのところで、力を入れずにゆっくり切っていくと、よこ糸が一本それても鋏をとめてしまいます。いい鋏なら、布目を見ないで指の感覚に頼って布目沿いに切ることは簡単です。
 布目どおりに切るために、糸一本引き抜いてから、そこを切るものと思いこんでいる方が多いようですが、ぜひ一度試してみて下さい。
 幼い時、鋏をまたいだりすると、祖父から烈火の如く叱られました。そんな私は、今でも鋏さん、へらこさん、とさんづけです。

霧吹き
 私の恩師はよく、昔の仕立屋さんは前歯が痛むんだよと、いわれました。どうしてだかお分かりになりますか。
 今日では上等の霧吹きを売っていますが、昔は口で霧を吹く小さな道具でした。しかし、それにも頼らずに、自分の口に水を含んで、じかに霧を吹くのがほとんどでした。
 今でも専門家は、口での霧吹きが上手のはずです。仕立屋に修業に入ると、毎朝口をすすぐ時、口で霧を吹く練習をしたそうです。
 私の師が口で吹く霧は、一メートル半も離れたところに座っていても、体がしっとりして来るような、素晴らしい霧でした。私どもが真似をすると、口に含む水が多すぎて、ポタポタと顎に水がこぼれてしまいます。目に見えぬような霧を吹くには年季がいりました。霧吹き器の場合も同様で、布のそばに絶対に近づけないで、しっとりと湿るように吹きましょう。

洗濯どめ
 きものを丸洗いした時、かくれた縫い代がゴロゴロしないように、あらかじめ、と めておくことを洗濯どめといいます。この洗濯どめという言葉は、仕事熱心な可愛い 弟子がつけてくれた言葉です。
 その弟子が私の洗濯を見ていて、「ゆかたを洗う時に、よく私の母は表からいちいち衿を綴じて洗濯をしていました。その時はなぜだか分かりませんでしたが、洗濯どめをしておけば、母のようにしないでも、中で縫い代がゴロゴロにならないですね」と感心してくれました。
 案外、和服に自信を持っている人でもこのことには気づいておりません。
 私の娘時代の失敗談ですが、中でしっかりとめたはずのゆかたの衿を一洗いしましたところ、どうしたことか、中で一方所ヨレヨレです。おくみの一番上のとめ忘れでした。その時、とめ忘れしやすい部分のあることを教えられました。
 洗濯どめは四〜五センチにあらくとめればよろしいのです。過ぎたるは及ばざるが如しで、丁寧にとめようとして、細かい針目ではかえって汚く仕上がるもと。ここ一番というポイントを一針すくいます。とめればいいというわけで、何の考えもなくただ真っ直ぐにとじるような、心ないことはしたくありません。

ショールのかけかた
 いつのころからこうなったのかしら、と思うのですが、ショールのかけかたがすっかり変わってしまいました。
 身近なおばあちゃまに聞いてくだされば、お分かりになると思いますが、私どもはまず首回りの部分だけ十センチほど内側に折ってから、着物の半袷がよごれないように、ショールを中に押し込むようにしてから、前で合わせます。もちろん保温のためと、ショールを安定させるためです。
 柔らかい素材のショールでも、毛皮のようにきものの衿から外側に、大変離してかけているきもの姿は、長年きもので育った私どもには、どうにもなじめません。

稽古
 よくお相撲のテレビを見ていると、何とか山は稽古不足だから勝てない、などと解説者が言っていることがありますが、和裁の場合も毎日稽古しないといけないのです。手を慣らすと言ったらいいでしょうか。
 仕立てのベテランでも、仕事にかかる前には、運針から始めますが、他のお稽古ごとと同じように、毎日たゆみなく練習することが大事なのです。
 日本手拭いを洗って糊けをとり、細長く二つ折りにします。輪を上にするより、耳を上にして練習するほうが布目がしっかりしてやりやすいと思います。昔は三十分で六十本という厳しい練習方法をいたしましたから、糸がからんで困らないように、糸を八の字型に針にかけ、鏡台などにずらりと並べて練習したものです。

余談ですが
 美容師さんが、私の髪の毛は右のほうが薄くて骨が折れるというのです。その時に、私の恩師は五分刈りの方でしたが、右側の毛が左にくらべてぐんと薄い方だったことを思い出します。考えてみますと、針をなめらかに縫いやすくするために、よく針の先を地はだにこすりつけては縫っております。そのために毛根をいためる度合いが多かったのでしょうか。何千枚も仕立てて釆た、これも歴史と言えるでしょう。

仕立てを頼むときはうるさく
 こんなことがありました。
 ある有名な若い歌手の方が、それはとびきり高価な晴れ着をお持ちになり、いとも簡単に「並み寸法でお願いします」とたったひとこと。
 その言葉は、仕立てに命をかけていた私の心には、「天丼、並み一丁!」のように、あまりにもあっけなく響いて、なにやら拍子ぬけしてしまいました。
 最近の若い方は、きものにあまり慣れないせいか、ほとんどが大ざっぱな頼み方をなさっているようですが、これは洋服をあつらえる時、Mサイズでとか、Lサイズでけっこうというのと同じことなのです。
 打ち明け話を申し上げれば、こんな大ざつぱな頼み方は、呉服屋さんに、もっとも軽くみられる頼み方だということです。
 洋裁店ではよく、「あの方はうるさいから、仕立てはくれぐれも念入りにネ」などと、マダムがささやいているのを、一度や二度、耳にされた方は少なくないと思います。きものの場合も同じです。
 大ざっぱな頼み方をする人は、きものがわからない人だから、どんな仕立てをしても文句はなかろうと思われて、ABCの仕立てのクラスがあるとすれば、簡単にCへ回されてしまいがちです。正月用の晴れ着でてんてこまいの暮れのうちはなおさらです。
 その逆に、自分の寸法をちゃんと承知していて、私はこういう体型だから、ここはこうこうと、ポイントを指摘しておくと、相手方に「この人はきもののわかる人」という印象を与えるわけで、同じ料金でありながら、技術のしっかりとしたAクラスの仕立て屋さんに出してくれるものなのです。
「仕立てを頼むときは、ウルサ型をモットーとすべし!」
 これが、雑な仕立てに泣かされない頼み方の第一のコツでしょう。

ほどけた帯
 九州で講演のため、初めて飛行機に乗った時のこと。
 生まれて初めての雲の上の様子はといったら、上はまっさお、下の雲にはサンサンと日の光が光の帯のようにさしていて、それはもうたとえようのないすばらしい世界に遊ぶ心地がいたしました。そしていささか興奮気味の私が、幸せいっぱいでタラップを降りてまいりましたら、迎えの方が「先生、帯がほどけてますよ」とささやくではありませんか。
 その時の恥ずかしかったことといったら、穴があったらはいりたい≠ニはあのことだろうと思われます。
 常日ごろ生徒たちに、「席を立つ時には、帯のタレが上がっていないか、ふくらみがつぶれていないかを、必ず手をあててみることです」と、口ぐせのように言っていながら、なんたる醜態。初めて雲の上のすばらしさにわれを忘れて、それこそ上の空だったのでしょうね。
 くずれやすい材質の帯だったせいもありましょうが、帯へのこころくばりを忘れてしまい、大失敗を演じてしまったというわけです。
 帯というものは、きものの後ろについている顔といわれるくらいに目だつものですし、とかく汚れやすいものですから、たいせつに面倒をみる心掛けが必要です。
 車の中では、座席の背に絶対によりかからないように心がけたいものですし、席を立った時は、私の先ほどの失敗談をよき例にして、必ずタレとふくらみに手をやることですね。

きものを出すタイミング
「きものはいつも、きちんと折りめ正しくたたんでおくもの」これも母から厳しくたたきこまれた教えのひとつにはいります。なんだあたりまえのこと、と思われるかもしれませんが、このあたりまえのことすら、この節ではいいかげんにされているように思われてなりません。「きちんとたたんだつもりでも、いざ取り出してみたら思わぬところにみにくいシワが……」こんな苦い経験をお持ちの方も、きっと多いことと思います。「シワになったらアイロンがあるさ」こんな声も聞こえてきそうですね。でも、晴れ着には、特に袷のものは、アイロンをあてますとどうしても狂ってきますので、「アイロンはあてるまい」くらいの気持ちを持ってほしいと思います。
 くり返しになりますが、折り目正しくたたんでおいたものなら、たとえ折り目があろうと決して気になりませんし、見苦しいものではないのです。
 晴れ着を出すのは、お召しになる前日。午後のお出かけなら、その日の午前中でよろしいでしょうね。
 あまり早くから出して下げておくのは、ほこりにもなりますし、だらしない感じで感心いたしません。
 そして、最後に忘れてはならないことは、シツケをしたまま着ないことです。あわててうっかり取り残して、つけたまま着ている方を見かけることがありますが、その姿はカルダンのドレスに洗濯屋さんの札をぶらさげているのとご同様。
 特に下前は、案外目につくものですから、完全に取りましょう。それもできるだけ前日にきちんと取っておく心ばたらきがほしいですね。

やはり綺麗に撮られたい
 私は写真を撮られるのが好きで、それも、いつもいつもニコニコしています。しかし活発にしているわけではごぎいません。雰囲気は、今ふうに明るく、全体はそれこそ、女の中の女たらんと工夫をしているのです。
 ところが水谷八重子さんの著書『過ぎこしかた』(日芸出版・昭和四十六年刊)の「写真のうつされ方」を見ますと 「ハイすみました」といわれて、初めてホッとした瞬間がじつは一番に自然で良いポーズで、写真の出来栄えも良いようです、とおっしゃっています。
 きれいに撮ろうと思っていると、かえってあらたまって、固い写真になってしまうのでしょう。

お辞儀
 東京の半蔵門の前に「東条会館」という宴会場があります。私が学生の頃は「東条写真館」とよばれていました。お見合い写真もここで写して貰えば、二割増しの美人になるという評判でした。美人に写るというのは女の子のあこがれであり、とくに見合い写真はみなさん、実物より、よく写りたがったものです。
 昭和四十七年の春、少々お値段の張るのも覚悟で、長い間憧れであった「東条会館」を訪れました。
 その何日か前に社長さんがテレビに出演なさっていたので、お名前を卯作様とおっしゃっていたことを覚えていました。
 その時はちょうど「若い人のきもの入門」という本を出版することをひろめるために使う写真の撮影でした。
 受け付けから奥をなにげなくみますと、社長さんがはるかかなたの椅子に腰をかけていらっしやるではありませんか。それでわたしは親しさを感じて思わず一礼してしまいました。すると、社長さんは立ち上がられてするすると私のほうに近づいて来られました。
 私が「一度こちらでどうしても写真を撮っていただきたかったのですが、パンフレット撮影のために、ようやくお伺い出来ました」とお話しをしました。
「そうですか、私が写してあげよう」
 ご自身では今は仕事をなさらないようでしたが、こう気軽におっしゃってくださいました。
「このように腰かけて、じっとしているんでなくて、ここからここまで顔を回してごらんなさい」
 静止した姿でなく、動いている私を、つまり横顔と正面との二場面を写してくださいました。
 自分でいうのも恥ずかしいですが、その写真を見て「まあ、私じゃないみたいね」と声を上げました。
 弟子の一言が忘れられません。
「たった一つのお辞儀でね」
 私は敬意を表して思わずお辞儀をしたのですが、やはり心はつうじるものですね。

日本が好き きものが好き(終わりに)
 大正十四年生まれの私は昭和に全時代を生ききったことになります。その時代は日本のきものが花と咲いていた時代でしたので、私のきものへの愛は、日本の国への愛と重なって、もう動かすことの出来ない双生児のような状態になっていました。
 昭和二十年八月の、あの太平洋戦争終戦の日、疎開先の信州から上京しようとしていた時「益子を東京に行かせてはいけない、自殺するから」家族の誰かが必ず私の後についていました。実際私は宮城の前で自害するつもりだったのです。
 私の、日本が好きという思いが、今日まで私の和裁の仕事をささえていてくれました。
 また祖父がきものの仕事の道を歩いた事も、私がきものを愛して生きてこられた、大きな原因だったと思っています。
 祖父亀治は、今の東京伊勢丹が伊勢屋呉服店といっていた頃、初代の社長と同年で、ご意見番的な忠勤者でした。また少し後に出来たあまざけや呉服店の支配人をさせていただきました。
 父、覺太郎は学問が好きでしたが、祖父の命令で松屋呉服店(今の松屋)小僧として修行に入りました。平和な時代から戦争の時代にかけて、苦難に耐えながら店長を勤め、祖父ともどもきものの生き字引とよばれるくらい、精進をしておりました。
 母、ハナは東京日本橋小伝馬町の嶋屋呉服店の次女で和裁に堪能でした。
 私はこの母から多くのことを学びましたが、今思うと母の仕事ぶりはプロそのものです。
 いまの私は、本当の和裁を覚えたいという方のために、それこそ昔の寺小屋式の教室を開いております。
  平成二年夏

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